家康が関東に入国すると、世田谷にあるほとんどの村がその直轄領となり、
代官・松風助右衛門の支配下に置かれ、喜多見氏・藤川氏らの旗本7人が、
喜多見村・深沢村・経堂在家村など都合9ヵ村に給地を与えられました。
寛永年間に入ると、大幅な領主替えが行われ、
天領15ヵ村(後20ヵ村)が井伊家の江戸屋敷賄料(まかないりょう)として、
彦根藩領に組み込まれたのをはじめ、14ヵ村が旗本領に、1ヵ村が増上寺領に替わりました。
その間、村々は新田畑の開発が進み、飛躍的に生産力が増しました。
元禄8年(1695年)には、増大した生産高を把握するために検地が施行され、村高(公定生産高)が確定しました。
元禄期は近世村落の支配体制が完成した時期であり、
この時確定した村高は明治維新まで変更されることはありませんでした。
明治2年(1869年)、東京府の開設、名主制度の廃止、
そして明治4年(1871年)の廃藩置県断行などの維新改革が行われた明治初期、
世田谷は品川県や彦根県(旧井伊領、後に一時長浜県とも呼ばれる)に分かれ、
また東京府や神奈川県に分かれるなど、目まぐるしく所属や区域が変わります。
明治 11年(1878年)には東京府に市街地の15区と周辺の6郡が置かれ、
世田谷の中東部は荏原郡に、千歳・砧村は、神奈川県北多摩郡に属しました。
さらに、東京市の誕生した明治22年(1889年)、
町村制の施行により、東京府の4ヵ村(世田谷・駒沢・松沢・玉川)と
神奈川県の2ヶ村(千歳・砧)に分かれました。
日清戦争後、経済界の活況によって東京の市区改正事業を始めとする土木・建築事業が大いに進捗しました。
洋式建築や土木事業の進行は、資材としての砂利の需要を高めました。
そして多摩川の砂利の供給のために鉄道の敷設が計画されたのです。
こうしたなか、玉川電車(渋谷~玉川)が明治40年(1907年)に開通しました。
大正から昭和初期には京王線・小田急線・大井町線・井の頭線などが開通します。
関東大震災が発生すると被害を受けた下町の人々は地価が安く交通の便のよい近郊へ移住し、
世田谷も急激に人口が増え、電車の沿線は住宅地に変貌していきます。
烏山には都心で被災した寺が22ヶ寺も移転し、寺町を形成しています。
この頃、玉川村全域で住民の手により大規模な耕地整理(玉川全円耕地整理事業)が行われました。
昭和7年(1932年)10月東京市の区域が拡張され、
世田谷も東京市に所属し世田谷町・駒沢町・玉川村・松沢村の2町2村で「世田谷区」が成立誕生しました。
さらに、昭和11年(1936年)10月には北多摩郡であった千歳・砧村の2ヵ村が世田谷区に編入されました。